豊北町の酒に関する古い資料の一つに阿川毛利家臣時田作兵衛が著した「一生見聞記」というのがある。それによれば「去年嘉永5年は悪年で、米が不足したので御国中は酒造が禁止された。これはお上の御仁政である。従って今年は酒がないはずであるが、酒が土地から涌いてくるのであろうか、何の席へ行っても一度も酒を飲まないで日を送る人は稀である。」とあり、たとえ酒が幕府や藩によって統制されている状況で(1)、しかも酒造が禁止されていても、人が集まる席では必ず酒が出されることがあり、たとえ他所から買ったのか、自分の所で造ったのかは明確にはわからないが、豊北町には酒が豊富にあり、酒が人の生活と密接につながっている一端が窺えて興味深い。

酒を作るには、よい米と水がないといけないといわれるが、天保14年(1843)の「長門国周防国酒造鑑札一件控」には表ー6のように、田耕以外の地域には、ほとんどあったということがわかる。酒造業は貢祖米払い下げの最大の顧客といわれ、酒運上銀は定石一石につき銀16匁で、長州藩では和市違銀といった。蔵米の前貸を受けて後に小切手を和市(相場)で買って返納するものであったから、防長米の値段を左右するものとされていたという(2)。『防長風土注進案』(天保13年)(3)にも酒造株に関して、阿川村に3カ所、神田上村3カ所、神田下村6カ所、滝部村2カ所あり、また安政5年(1858)『豊浦藩村浦明細書』(4)にも粟野下村に7株、嶋戸後地 同浦に1カ所、角嶋に1カ所あったとされる。いずれも庄屋などの大地主が行っていたという。近年まで豊北町にあったとされる酒造業者の一覧(表ー7)と比較してみると、神田、阿川地区は時代とともに減少しているが、他のほとんどの地区は同じか増加していることがわかる。また例えば「長門国周防国酒造鑑札一件控」の神田郷村の吉田猪介は現在神田和久にある大野酒造(現在では酒造はおこなっていない)の前身であるという話も聞かれ、経営者は代わりながらも、連綿と地域の酒造場が継続していたように思える。いずれにせよ、このように増加してきた酒造業も昭和16年頃からの企業整備で減少していくことになる。かっては1地区に1つ以上はあるといわれた酒造場も、現在では阿川の西谷酒造1軒だけが自分の所で酒造りから瓶詰めまでをおこなっており、田耕の明寿酒造が原酒を他所から取り寄せて自分の所で瓶詰めをおこなっているだけである。西谷酒造では、人手をを必要とする作業については機械化されているが、手作業の部分については、木製品がアルミ製に変わったものもあるが、今回の図録(別冊)で触れたような昔ながらの酒造道具でおこなわれている。